白洲正子「私の百人一首」

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 若い頃白洲正子が好きで、難解な物まで読破しようと頑張ったころがある。年明けから『私の百人一首』を就寝前に読みながら入眠することにしていた。昨夜九十九番、後鳥羽院と百番、順徳院を読んで終了。ベットに入れば5分と持たずに寝入ってしまうのが普通なので、毎晩五、六首をと考えていたが、予定通りに捗らなかったものの、得るものは大きかった。白洲正子という方の感性の良さと、博識さに導かれ幾度か目を止めて、平安末期に思いを馳せる時間を得た。それはデジャブとは異質なものだろうが、ある空間に浮遊しているような『良い心地』...いや、『酔い心地』だった。

 中学時代に百首を覚えようとしたのは、当時の自分の記憶力の悪さを改善したい一心だった。折れそうになりつつも「百首を記憶できた」の達成感は大きく、以後の人生に心の支えとなってた。が歌の意味や情感に興味はあっても、作者に関心が持てなかったので、歌と詠み手を一緒に覚えはしなかった。ただ「坊さんが女のような恋の歌を詠うんだ」程度であった。しかももう百首の記憶は薄れ忘れ果てていた。
 今回白洲正子の解説によって、その歌の成立の背景や人間関係が見えるようで、歌のなかに引き込まれた。和歌が技巧的であるとか、知的センス、情緒豊かとか、颯颯としているとか、恨みつらみに満ちているなどを感じ取れるようだった。

 九十九番に選り入れられた「人をもし人も恨めしあじきなく世をおもうゆえにものおもう身は」と 詠じた後鳥羽院は、承久の乱を起こし、頼朝に封じ込まれ隠岐に流され剃髪し、無念の中で和歌を詠む日々となった。その院を、80歳近い老齢の身で隠岐の島へ見舞った歌人藤原家隆帰路の船旅に、無事を念じ「我こそは新島守(もり)よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ」と詠じた院の激しい気性と情の深さが感じられる。その院よりも薄幸と思える順徳院の「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」には諦めに似た静かさを感じ、人の生き方のそれぞれであることを再認識。

 中学時代に、常備持ち歩いたポケット版の小さな『百人一首』は今でも本箱にある。以後出会った田辺聖子の『百人一首』は続との2冊で、岡田嘉夫のさし絵の美しさもたっぷり楽しめ、私の宝物になっている。今回白洲正子の「私の百人一首」を読みながら、解釈の違いはと、大岡信の『百人一首』を開いてみたり。どれも一応読んだはずのものなのに、今回は数段違う味わいを覚え、これが歳を重ねることなのかと。
 私などが何を得たとも言えないが、藤原定家が最初に天智天皇を、次に持統天皇父子を置き、九十九番に後鳥羽院、最後に順徳院父子を置いたことの意味も感じられた。時代の流れは万葉から平安へ、政権は朝廷から武家へと移って行く大きな流れの中で、精一杯に生きた人々の心の裡を、幾らかにしても感じられた。

 続けてもう一度、今度は白洲正子、田辺聖子、大岡信を横に並べ、一首ずつをじっくり味わってみるのが今年一杯の目標と思っている。いくら読んでも、記憶力の低下著しいこのごろ、確かな感触は掴めないにしても一首でも、歌の臨場感に浸れたらと期待している。

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